手漉きを守り、岐阜の水うちわ盛り返す
高橋尚子杯ぎふ清流ハーフマラソンの3位入賞者に贈る水うちわを作る家田紙工(岐阜市今町)の家田学社長(63)は「手漉きの美濃和紙を残したい」と願い、新商品を手掛け、資料収集に力を入れてきました。その中で盛り返したのが水うちわです。
水うちわ開発
家田さんが5代目として家田紙工を継いだのは2004年。1889(明治22)年に創業し、和紙卸しと岐阜提灯の絵付け、販売を担ってきました。愛知万博(05年)を前に、地元の業者グループとともに美濃和紙の新商品開発に取り組むようになりました。
家田さんらが注目したのは水うちわ。明治時代に人気でしたが、このころには、岐阜市内の1社が手掛けるだけになっていました。その業者が取り引きする絵付け職人が廃業し、一時岐阜の水うちわ製造が途絶えました。家田紙工では、提灯で薄い美濃和紙を扱っています。グループで試作し、家田さんは2006年ごろ、雁皮の水うちわを商品化しました。
水うちわは岐阜うちわのひとつで、ほかに柿渋や漆の塗料で仕上げるタイプがあります。水うちわは、薄い雁皮の紙にニスを塗ることで扇面の向こうが透けて見え、水をはじくのが特徴です。
岐阜うちわは、室町時代の女官の日記に記載されており、鵜飼の土産として人気を集めました。「明治、大正期は米国に輸出され、アムトラックの鉄道乗客に配布されました」。1300年の伝統の美濃和紙を使い、数百年前にさかのぼる岐阜うちわ。「伝統文化を受け継ぐのはやりがいがあります」と家田さんはかみしめます。
戦後の岐阜うちわ
家田さんは16年前から、ネットサイトで岐阜うちわを探しています。神奈川県の商店の販促用と思われる富士の絵柄の入った水うちわ、鵜飼や山並みの絵柄の入りの漆のような塗料の岐阜うちわ、鮎の絵柄の入ったうちわ。集まった数本は岐阜などで戦後に作られもののようです。どこで製造されたかわからないものもあります。
版木
家田さんは20年ほど前、紙ナプキンの版木も譲り受けました。岐阜市内の業者が事業を縮小し、その蔵に約30点が残っていました。「版木として利用しないけれど、残した方がいい」。明治時代から昭和初期に作られた美濃和紙の資料を守ることにしました。
この版木で美濃和紙に多色刷りし、花、提灯を描き出しました。明治時代には欧米に輸出。パリの百貨店「Printemps」の刻印もあります。「極薄の紙が西洋に広がり、アフタヌーンティーのクッキーやマフィンをのせるのに使いました」。高度成長期にかけて、岐阜で紙ナプキン製造は隆盛しました。
水うちわは一時、途絶えかけましたが、涼をとるだけでなく、伝統工芸品として室内で飾られるようになりました。あきらめず、一歩一歩進んだことで失われたかもしれないものが息を吹き返しました。粘り強さは岐阜県人の特徴でしょうか。「高橋尚子さんは岐阜の誇るべき存在」。家田さんもQちゃんの功績に感服しています。